おはようございます。昨日はよく雨ふりました。そんな雨の中、学習会に出かけました。

その学習会とは、アドラー心理学を学んだ教師が愛知県で一番目に「アドラー心理学を普及してきた=三輪克子先生の「問題解決講座」でした。

 

問題解決とは、日々の振り返りの中から思っていることを、アドラー心理学の視点から話し合う。

1か月間に自分はどうだったかを振り返ります。

1か月間を振り返るといっても、1か月間の心の変化を私は覚えていないので、つい最近の私の感情を話しました。

昨日、一昨日このブログで書いているようなことです。

 

本日の大きな流れは、第7章 ライフタスクを考えるというものです。

ワークタスクでは、ひとは他人の役に立つことをしながら、生きていられればいいという感覚があります。でも人の為に立とうとしても「それが出来ない人っているのか?」を考えました。

例えば、赤ちゃんは「人の為にたとうとなんてしていないし、大人が振り回されるだけ」「障害が重い人は、人とかかわることもむつかしい」それはどうですか?について

 

あるお母さんのことを思い浮かべました。

障害があろうがなかろうが、子育ては本当に大変。クタクタの繰り返し。特に小さいお子さんの家庭はまさにそんな感じです。

 

そのお子さんは「発達障害がある」、片付けたものを引き出しから引き出す行為が楽しくてたまらない。雨が降ろうが公園に行きたがる。いけないとなると暴れる。ごはんを食べない。

ほとんど親の期待は裏切られる。生活すらスムーズに進まず、お母さんは「頭が変になるくらいな気持ちを味わってきた」ことだと思います

 

これ、誰がだれに貢献しているかというと

手のかかる子供👉ママ「困る」「疲れる」👉ママのお母さんに応援を頼む

ママとお母さんの間がしっくりいってても、いってなくても、ママとお母さんの関係はより強化される。

お子さんは、ママとお母さんの関係さえ解きほぐし、ママのこれまでの「お母さん」に持っていた確執をときほぐしている。

親にとって育てにくい「どうしようもない子」が投げかけてくれている。これを共同体感覚(ひとのお役に立ちたい)というのだと思いました。

 

パパ編。

パパの大事なものを壊す👉パパ怒る👉パパの加勢をするか、この関係にかかわらない様にしていたママが👉「悪気はないとおもうよ」とパパにつたえる

日常の子育てをしていないパパにとって、子供に言えばわかるを期待していたのだけれど、現実はそうではなかった。

子どもに「言い聞かせようとと怒りがこみ上げバチン」とやってしまった。

 

パパはの気持ちは晴れるどころか、良い気はしなかっただろうし、子供は怯えただけになってしまっただろう。

ママもパパに「子育て参加をお願いしてみる」。別にあたりまえの日常生活でよくあることではありますが。

パパ、子供と遊ぶことは全然あたりまえでない。

子育てを大人はがんばっている。その様子をみている子にも変化が出ている。👉こどもからパパへの変わる気づきのキッカケを送られている

 

時間も涙も悔しさも嬉しさも・・・してきてやっと味わえる一瞬。

 

これって、夫婦・ラブタスクでもおなじこと言える気がしました。

ここでは私の悩みの実例を取り上げて話しました。

 

自分が大切・自分だけ大事・他人が大事・・・私の心の中には、そのどれもがあり、その時々の事柄により、自己中心になることもある。

夫とのことを話をして「それは自己中心」だと聞かされた時、「え~~~なんんで?」と「そうだったのか~」「私、けっこういい人なんだけどな~」の想いが浮かんできました。

 

モヤモヤといいうより「新しい気づき」って感じでした。

そして今、あ~~なるほどな~。

この三つの気持ちあることは「なんら変じゃない」。偏屈でもない。

いろいろあるよ。と思ったのでした。

 

私の生涯かけての目的は「夫婦が死ぬとき、良い人と巡り合えた」と思い合える関係を日々つくっていくこと。

8:30になったら、双子の孫神様宅へ保育のご奉仕に一日でかけます。夫はその運転手として私を送り迎えしてくれます。

「共同体感覚」。これぞ人のための役にたてていること。

ではまた。